ノートはその人の理解そのものを反映する。ノートを書くというのは、ただ単に先生が板書したものを書き写すだけという作業ではなく、その過程において記述内容を思考し、咀嚼し、それを最後に一枚の紙に書き起こす一連のプロセスである。
学生の頃の学習塾講師やメンターを含めて、現在までに多くの学生のノートを見てきた。ノートとは不思議なもので全く同じ授業を聞いていても学生のノートに全く同じものはない。それは単純に赤色を黄色で書いているとか、文字のサイズや字体の癖などという表面的な意味においてではなく、ある学生のノートは先生の板書と一字一句同じであり、ある学生は板書にない先生の余談まで書き、ある学生は自分が気に入ったところだけボリュームのあるノートだったりする。
先に私の結論を述べておくと、ノートの書き方に正解は無いと思っている。しかし、ある程度習熟度の高い学生には共通している正解と思われる傾向があるのも事実である。彼ら彼女らは示し合わせて同じようなノートの書き方をしているのではなく、おそらく深く自己理解する過程で結果的にそうなってしまう、結果的にそうなる蓋然性があったということなのだと思う。
つまりそれは一枚のノートを見た瞬間に一時間ないし二時間の授業ストーリーを自分の中でイメージできるノートというものである。それは決して継ぎ接ぎてきなノートではなく、ノートの始まりから終わりを見たときに、先生の言葉を自分の言葉に置き換えて一連の問題を自身の思考の流れに沿って紙に書き起こしているノートである。
この「自身の言葉でノートを書く」という行為は非常に苦痛である。なぜならば自分の頭で考え、表現に起こすという能動的姿勢が問われているからである。つまり習熟定着プロセスにおいて、授業中に先生→生徒へ伝達する際に、受け手側である学生が盲目的・盲従的にただ文字として板書をノートに書き写すというのではなく、なぜ先生はそのように口述し記述したのかを、単に受け手側という立場ではなく、むしろ積極的に思考する為手側として意識的に思考することが大切であり、結果、これは飛躍的な学力向上に直結する。
同じ授業を受けても学生個々人の理解の仕方・程度というのは百人百様であるからノートの書き方が違うのは当然である。しかし、そのノートを自分自身の言葉で書いているノートとそうでないノートというのは、見る人が見るとわかってしまう。ノートとは自分の理解の映し鏡であり、能動的姿勢が反映されているノートはこちら側にその思考プロセス・理解ストーリーがビンビンと伝わってくる。このエネルギッシュなノートこそが習熟度の高い学生に共通しているものである。これは字がキレイで見やすいとか、カラフルなデザインに凝っているとか、そういう類の話ではなく、本人の大変な苦悩を経て自己理解にまで至ったストーリーがエネルギーの流れとしてこちらにまで伝わってきてしまうようなノートである。
本稿は抽象的な概念が中心でややわかりにくかったかもしれない。しかし、塾生へ心からのメッセージとして、「自分の言葉で理解し、咀嚼する訓練を日常の学習で積んでほしい」ということであり、それが特に二次試験のような自分でストーリーを作り出す記述試験でそっくりそのまま活きてくる。さらに言えばその先の大学以上の学問でその真価を発揮する。
最近はすっかり気温も下がり半袖短パンでは風邪を引いてしまうような季節になり、そうこうしているうちにあっという間に冬を感じ始め頭の中も共通テスト一色になってしまう。その前のこの時期にもう一度医学部・難関大受験合否の肝心要である二次学力向上を意識して授業の聞き方、ノートの取り方を見直してほしいと思う。うちの塾生なら、あの熱意ある眼差しでじっと黒板を見つめる君たちなら絶対に大丈夫、絶対にできるはず。