『多数決は公平だ』と私たちは学校で教わってきた。しかし、私たちは大人になるにつれてすべての場面でそれが最良の方法とは限らないと認知する。特に、創造性や革新が求められる場面では、多数決が“平均的な選択”を生み、突出したアイデアや圧倒的な才能を押しつぶしてしまうことがある。
多数決の本質は『合意形成』なのか、あるいは『妥協』なのか。多数決は、手っ取り早く集団の意思をまとめる際によく用いられる手法である。しかしその本質は『最大多数の最大幸福』ではなく、『最大多数の最大妥協』に近いと感じる。つまり、最も尖った意見や、未来を変えるような発想は、しばしば『理解されない』『浮いている』として異端に見られ、結果的に排除されがちになる。
ここで、天才はいつも少数派である。これは歴史を振り返れば明らかであり、天才は常に少数派だった。例えば、ガリレオは地動説を唱えて異端とされ、スティーブ・ジョブズは『電話にタッチパネルをつける』と言って笑われ、ゴッホは生前にはほとんど評価されず、死後に作品が再評価された代表例である。彼らの思想やアイデアは、当時の『多数派の常識』から見れば異質で、ときに危険ですらあった。もし彼らが多数決に従っていたら、未だに地球は平面で、iPhoneもなく、無名の作者の汚い油絵としか見なされない世界に私たちは生きていたかもしれない。
教育現場における多数決の功罪も考える必要があるだろう。学校では、多数決が『民主的な運営』として頻繁に使われている。しかし、クラスの活動や方針を多数決で決めると、声の大きい意見や多数派の好みに流されがちで、結果として、静かに深く考えている生徒や、独自の視点を持つ子どもは埋もれてしまう。本来、教育とは個性を育てる場であるべきだが、多数決はその個性を『平均化』してしまう危険をはらんでいる。
多数決は道具であり、万能な意思決定の手法ではない。多数決は、秩序を保つための道具と考えるべきだろう。しかし、創造性や革新を求める場面では、その道具が『天才を殺す刃』になることもある。天才は、はじめは理解されない。だが、その孤独な天才が社会を革新的に変える力を持っているということを知るべきだろう。