道端に生えている草を見たとき、あなたはその草の名前がわかるだろうか?多くの人は植物学者ではない。そのため道端で見かける草のほとんどは『雑草』に分類されるだろう。しかしながら実際には『雑草』という名前の草は存在せず、一つひとつの草にはきちんと名前がある。つまり、それぞれの草の名前を知らないがゆえに『雑草』としか草を認知できないのである。このように自分の知識の幅が狭いために、世界の見え方も狭くなってしまっていないだろうか?勉強する目的の一つは、まさにこの「世界の見え方をクリアにする」ことである。
人間は基本的に知っていることを中心に物事を考える習慣がある。自分が知っている枠組みの中で事物を捉えるのだ。そうだとするならば、自ずと前提の知識量で思考の幅や選択肢が限られてくる。上記の草の例を挙げるならば、雑草の中にオオバコやカモジグサがあることを知らなければ、それらのすべての草を『雑草』と一括りにする以外の選択肢がないわけである。
こう考えると、勉強の重要性が理解できないだろうか。勉強とは英語、数学、国語、理科、社会のような“勉強”だけでなく、“知識を得る”という意味合いにおいて子供でも大人でも学び続けることがいかに重要かを。学校で学ぶ勉強とは、何も高校受験や大学受験を突破するためだけに学んでいるのではなく、マクロ視点にはこのように「世界をクリアに見る」ために必要な考える習慣や考える方法を示唆してくれている。
英語や数学といういわゆる受験勉強を通して、英語や数学ができるようになるだけでなく、その習得過程で経験した知的好奇心が満たされる喜びや困難を乗り越える方法、考え抜く基礎を養うことが将来社会に出てから大いに役立つ。上述の如く、自分という一個体が物事を考えるとき、常に認知の偏りが生じるわけだが、その中でも考え得る最大限多様な選択肢を持ち、あるいは全く新たな知を求めて探求する術を小中高大で学んだ人とそうでない人には社会人以降に圧倒的な差が生まれる。
いつまで経っても『雑草』としか認識できない自分と、『オオバコ』『カモジグサ』と認識できる自分、将来どちらになりたいか。両方の可能性が残されている今の学生には、常に今自分がやるべきことを考えて行動してほしいと願う。