思考停止の罠は静かに訪れる。毎日の買い物も支払いも、ワンクリックやワンタッチで完了する時代。便利であることは私たちを助けるが、同時に『考える必要性』そのものを奪っている。
過去を振り返れば、思考は常に『課題』とともに生まれてきた。冷蔵庫がなかった時代の人々は保存技術を考案し、移動手段が限られていた時代には車輪やエンジン技術が生まれた。不便さが問いを生み、問いが思考を促す。
教育現場でもこの傾向は見られる。『効率よく学ぶ』ことが重視されるあまり、学生が試行錯誤する機会は減っている。例えば、英作文の添削AIを使えば、文法ミスは即座に修正されるが、構造や表現の選択に悩む機会は激減する。便利さは成果を加速するが、プロセスの省略は『考える能力』を大きく弱めてしまう。結果、子ども達が自分の頭を使い考える時間は減少する。
これはまた、習慣化にも通じる。例えば、多くの人が『自己管理型』アプリに頼ることで、目標達成率は上がるかもしれない。しかし、本来は自らの意思と行動を見つめ直すことこそが、自己理解と成長につながる。それを他者やツールに委ねすぎると、『自分で考える』という核心が空洞化していく。
豊かさは決して悪ではないし、化学技術の発達も素晴らしい。ただ、自分で考え行動するというプロセスなしに、それらに呑まれることが思考停止を生む。だからこそ私たちは、便利さを享受しつつも、時にはあえて不便な選択をすることで、思考の筋肉を鍛え直す必要がある。
例えば、手書きの日記をつけてみる。調べものをスマホで済ませず、本や辞典を開いてみる。買い物をネットではなく、店に足を運んでみる。そんな些細な手間は、脳の怠惰を防ぎ、問いを生み直す営みとなるだろう。