118本。これは私が医学部に受かった一年間で実際に使ったボールペン(戦友たち)の本数である。文字通り、手に汗握り、汗まみれの手に握りしめられたボールペンたち。一年間は365日であるから、約3日に1本のペースでボールペンを使った計算になる。決して短絡的にボールペンの本数=努力の量ということではないと思うが、凡才が非凡な相手に立ち向かうときの一つの参考の数字として見てほしい。
私は問題・解説を目で見ただけで一瞬で理解できてしまうような頭の良さを持っていなかった。それゆえ、その問題・解説を理解する際は、自分の手を動かして紙に書いて覚える必要のあるタイプの人間であった。結果、大量に文房具を消費した。しかし母子家庭ということもあり経済的に裕福ではなかったから(学費は自腹、1週間のお小遣い500円)、道端で配っている販促のボールペンを余分にもらったり、ちょっとしたイベントの時にもらえるボールペンの余りを駆使してボールペンを確保していた(サラサ、ジェットストリームのボールペンは今でも書きやすくてとても好きだ)。一方で書き込むための紙は、書き殴れれば何でも良かったのでチラシの裏やメモ切れなどをよく使っていた。
なぜボールペンなのか。ボールペンはシャープペンよりも摩擦が少ないので文字を書きやすい。大量に書いて書いて書きまくる勉強スタイルであったから、こういったわずかな工夫も個人的には大切だった。少なくとも毎日10時間以上は勉強して書いて書いて書きまくるので、右手はいつもボールペンで真っ黒になった。
ボールペンのメリットでもありデメリットでもあるが、ボールペンで書いた文字は簡単には消せない。そのため間違えたところは大きくバツ印を付けたりするわけだが、これはメリットだと思う。つまり、もし鉛筆で記載していれば修正事項は速やかに消しゴムで容易く跡形もなく消去されているはずだが、そこには自分が考えた思考のプロセスがレトロスペクティブに(振り返り的に)見たとき一切何も残らないことになる。しかし、ボールペンは修正液などの特別な力を借りない限り、良くも悪くも残り続ける。それは少し時間が経ったときに見返すと、思考プロセスの修正過程を再度現前せしめてくれる手助けになる。最初はこうやって考えていたけど本当はこう考えるべきだったのか、ということを思い出させてくれるのである。
この思考プロセスを、私の場合は118本のボールペンを使うことで習得していった。「私は・僕はそんな効率の悪いことをしなくても大丈夫だよ!」という地頭の良い学生には全く理解できない愚行なのかもしれない。しかしながら、少なくとも凡才で努力をすることでしか非凡な集団と勝負の土俵に上がることすら許されなかった私にとっては最高で最善の学習スタイルだったと今でも思っている。
大学受験とは他人との競争である。自分が全国偏差値50の人たちと全く同じ学習方法・学習時間で勉強を続ければ、理論上一年後の偏差値は50のままである。しかし、もしそこで他人の努力よりも有意に抜きんでることができれば、それがある種狂気じみた方法だとしても、結果的には他人との相対値である偏差値が70にも80にもなる。逆の言い方をすると、そうしないと他人に追いつき追い越せないのである。
118本という数字が医学部や難関大を目指す人たちの中で、それこそ偏差値50程度の努力だったのか、あるいはその集団においても偏差値70オーバーの努力だったのか、これは受験生全員にアンケートを取ったことが無いので明確な答えはわからない。ただ一つ言えることは、私は118本の戦友たちと手に汗握り、結果として第一志望の医学部に合格できたということであり、そう考えると偏差値50以下の努力ではなかったのではないかと思う。冒頭にも述べたが、ボールペンの量=努力の量ということではないが、この【118本】という数字を見たときにうちの塾生も全国の受験生も何となく自分を客観視する一つの数値目標に使ってくれればと思う。