教育の本質とは何か。その核心は「主体性を育むこと」にあると考えている。
辞典をひもとくと、主体性とは「自分の意志・判断で行動しようとする態度」「周囲の意見や指示に頼らず、自らの考えにもとづいて行動する性質」と定義されている。要するに、“自分の頭で考え、決め、行動する力”のことである。
しかし近年、この主体性を育てる意識が教育現場でも家庭でも希薄になっているように思う。その結果として、いわゆる“指示待ち人間”が増えているのではないか。もちろん全員に当てはまるわけではないが、10代・20代の若者の中にその傾向が確かに見える。
ここで批判したいのは学校だけではない。本来、学校と家庭は連携して子どもの主体性を育てるべきだが、現実には「与えすぎる教育」が、学校でも家庭でも子どもたちを教育する場面で横行している。
与えられ続けた人間は、やがて必ずこう言うようになる。
「与え方が悪い」
本来、教育とは“与える”ものではなく、生徒自身に考えさせ、自力で解決する術を身につけさせる営みである。しかし現代の教育現場では、与えすぎている。しかもその与え方に対して親が文句を言う。
・成績が伸びないのは学校が悪い
・うまくいかないのは指導が悪い
・失敗したのは環境が悪い
こうした構図が続けば、子どもは「与えられて当たり前」「うまくいかないのは他人のせい」という他責思考型の人間へと育ってしまう。
だが現実には、自分の人生の最終責任者は自分である。
「他人がこう言ったから自分はそうした」という選択を積み重ねてきた結果が“今”であり、その責任は自分にある。この事実を、遅くとも中学生、高学年なら小学生の段階から少しずつ教えるべきなのだ。
学校教育のもう一つの問題は、目先の1年しか見ていない教育設計にある。
本来なら、
・中高一貫なら6年間
・中学・高校ならそれぞれ3年間
という“年単位のスパン”で主体性を育てるカリキュラムを組むべきだ。しかし現実には、各学年が「今年をどう乗り切るか」だけを考えてしまっている。
この短期的な教育が続けば、主体性が育つはずがない。
主体性がある若者は、人生を自分で切り拓く
「自分は医者になる」
「私は弁護士になる」
そうした強い意志を持つ者は、時に自ら茨の道を選ぶ。
だがその選択こそが成長を生み、同じ10代・20代とは思えないほどの逞しさと輝きを放つようになる。
受験という観点で言えば、主体性がなくても塾や予備校の力を借りれば、一定レベルまでは半ば強制的に学力を上げることができる。
しかし、医学部や難関大といった“受験猛者”たちが競い合う領域では、本人の主体性がない状態で仕組みだけがあっても勝ち切ることは不可能だ。
そこでは、
・塾や予備校の仕組み
・本人の主体性
この二つが複雑に絡み合って初めて到達できるレベルの戦いが繰り広げられている。
つまり、主体性の欠如は最後の勝負で必ず露呈する。
教育とは「自分で考え、自分で選び、自分で責任を負う人間」を育てることである。
教育の本質は、知識を与えることではない。
自分の人生を自分で選び、その選択に責任を持てる人間を育てることである。
主体性を育む教育を、学校も家庭も本気で取り戻さなければならない。
それができたとき、子どもたちは自らの力で未来を切り拓く逞しい存在へと成長していく。