人は誰しも好き嫌いがある。食べ物でもスポーツでも好きなものは好きだし、嫌いなものは嫌いである。もちろん勉強もそうである。今日は、勉強が好きとはどういうことなのか一緒に考えてみたいと思う。
勉強が好きで好きでたまらない。寝るよりも、食事をするよりも、友達と遊んでいるよりも、机に向かってガリガリと勉強するのが好きで好きでたまらない。こんな人はほぼいない。どんなに多く見積もっても、それこそ100人のうち1人もいないと思う。
しかし「勉強が好き」という人は一定の割合でいる。義務的にではなく、自分の自由意志として机に向かって何かを学ぶということが好きだという人は一定数いる。私もこの中に分類されると思っている。特に年齢を重ねれば重ねるほど、こういった学習意欲が向上するという人をよく目にする。
この場合の「勉強が好き」とはどのような種類・性質として「好き」という意味になるのだろうか。この際よく「知的好奇心」という言葉が使われる。自分が中高生のときはあまりこの単語の意味を実感としてわかっていなかったように思われる。しかしながら、大学で医学という学問や医師として臨床現場で働く上で、この「知的好奇心」という意味が少しずつ実感として理解してきたように思う。
結局のところ、知的好奇心とは、「物事を知らないままにしておくことが気持ち悪い」という感覚のことだと思う。「あれ、これどうなんだろう?」と思ったことをそのまま放置しておくことが“いずい”のである。(“いずい”とは東北以北で使われる方言のようである。何となく違和感がある様のこと。)例えば、医師として仕事をする中で、患者さんにこんなことを質問されたけど本当はどうなんだろうかとか、趣味の英語を勉強する中で、英語では何て言うんだろうかとか、こういったものをすぐに調べようと思う気持ちの様のことである。
今、私自身の歴史を振り返ると、こういった知的好奇心と呼ばれる物事に興味・関心をもつようになった土台が作られたのは、大学受験期に養った「わからないものを解決しようとする習慣・姿勢」がベースにあるように思う。大学受験で最も養わなければならない素養は、然るに、「何か壁にぶつかったときに自身で解決する手段を考える力」である。この習慣・姿勢を体得する過程として、公的にはある意味最後のハードルとして、大学受験というものを社会が用意してくれているのである。
受験では他者よりも点数を取ることが求められる。ましてや医学部や難関大といった高倍率の受験では、それはいわずもがなである。しかし、他者よりも点数が高く取れるというのは、この「わからないものをどんどん自分で解決しよう」としたその先に、結果的に得られる産物であり、この学問的姿勢こそが社会が必要としている(少なくとも社会が必要としている可能性が高いと考えられる)のではなかろうか。
医師として働く中で強く感じることとして、この自ら課題を設定し解決する姿勢は、今後も医師として働くことを前提とするならば自ずと必要になるし、社会からも当然そうであるという視線で見られているということである。つまり、この進化し続ける生命科学(=医学)という領域でプロフェッショナルとして従事するならば、死ぬまで勉強し続けなければならないということである。カッコよく表現するならば、医のプロフェッショナリズムとでも言うのだろうか。
自分自身は医師としての人生しか経験していない(経験途中である)ので、他領域の正確なことはわからない。しかし、結局はどの領域で仕事をしようとも、こういった知的好奇心をもち、事物を探究する姿勢で臨み続けなければ、この目まぐるしく変化する社会の置いてけぼりになってしまうのではないかと推察する。医療とは全く異なる領域で活躍する人に話を聞いてみても、上記のような回答を多く得るので、医療であろうとなかろうとおそらくこの推察は正しいと思う。
人間である以上、当然そのモチベーションや物事の取り組み方というのは様々であって良いと思う。100人の人間に100人とも更なる探究心を持ちましょうというのは不可能であろう。しかしながら、医師という生命を扱う領域のプロフェッショナルになろうとしている受験生には、もっと言えば、数年後に医師となり患者さんの健康や不安に寄り添っていくであろう北大・医大進学塾の塾生には、特にこういった知的好奇心を強くもってほしいと思う。
と同時に、本塾の塾生を見ていると、彼ら彼女らなら心配は不要、安心して10年後20年後の医療現場を任せられるとも思っている。それくらい塾生は学ぶ姿勢を止めないし、私は塾生に絶対の信頼を置いているからである。一日も早く塾生と一緒に仕事がしたいと心から思えるのである。こんな塾生たちと今一緒の学び舎にいられることをとても誇りに思っている。