理科を学習する目的とはいったい何であろうか。英語を学習すると英語圏の人の考え方・文化的背景を理解する助けになる、数学を学習すると物事を論理的に咀嚼する力を養えるなど多少なりともイメージをつけやすいが、はたして理科の場合はどうであろうか。
理科とは一口に言っても、大学受験においては物理・化学・生物・地学などバリエーションに富んでいる。地学は、個人的に深く学習したことがないためやや専門外であるが、おそらく他の3科目と同様の目的があると推察できる。それは、「物事・現象をイメージで捉える力を養う」ということだと思う。つまり、目の前で起こっている、あるいは実際に目には見えない場合でも、ある物事・現象をイメージして、その変化に対して自身で仮説を立て、それを理論的に説明する能力を養うことにあると考える。これは口で言うのは易しいが、実際に個々の問題に対して自分の頭を使ってイメージし、最も確からしい答えを導き出すのはそう簡単なことではない。
例えば、「細胞内でAという物質とBという物質が反応を起こし、Cという物質ができた」という事実がある場合、Cという物質ができたという事実から遡り、「これはAとBが反応したのではないか」と仮説を立て、実際にそうであることを証明しなくてはならない。これは医学においても重要であり、「患者さんにこういった変化が起きたのは〇〇が原因ではないか」という推察をする能力のことである。その上で、適切な診断プロセスを検討し、適切な治療にもっていくのである。この能力は、臨床医学でも基礎医学でもありとあらゆる場面で必要になる。
この「現象をイメージする力」は医学などの学問領域に限らず、当然日常生活でも重要になってくる。A→B→Cという形で物事のプロセスを順番にイメージする場合もあれば、逆にC←B←Aというように仮説的に、理論的に結果から遡る場合もある。この両方向の思考プロセスを自由自在に使えるようにならなくては「現象をイメージする力」があるとは言えない。理科は、物理・化学・生物・地学を問わず、このイメージする力を訓練する場として存在している。つまり、物理は物理現象をイメージし、化学は化学現象をイメージし、生物は生命現象をイメージし、地学は自然現象をイメージする。その思考訓練を経て「現象をイメージする力」を仕事や日常生活のレベルでも応用できるように訓練する場なのである。
ときにこの「イメージの破壊」は悲惨的な結果につながる。つまりイメージ力のない人は、自分がやった行いが結果的にどのような最終着地点を迎えることになるのか、イメージできないということである。それは些細なことから始まり、ときに大惨事に繋がる可能性を秘めている。そのような場面をイメージしてみてほしい。この読者ならば、その結果がどうなるのか簡単にイメージできるのではないだろうか。
ゆえに、医学部では理科が重要視されるのは上述した理由からも自明の理である。多くの大学で理科の配点は英数と同程度であり、一部の大学では英数よりも配点が高い場合すらある。理系志望者にとって英数が主要科目であることは間違いないが、それと同程度に理科も避けては通れない教科であることを肝に銘じてほしい。決して役に立たない教科などではなく、特に医学部志望生は受験のみならず、入学後も事あるごとに、理科のその存在を感じることになる。