人は弱い生き物だ。性善説や性悪説ではなく、性弱説という概念を提唱する人がいるが、ある意味で理にかなった概念なのかもしれない。人は弱いがゆえに、目の前の恐怖や怒りによって、あるいは目先の苦労を避けようとするばかりに、厳しい正解ではなく優しい不正解を選びがちである。
はじめに、人は事実を事実として直視することが苦手である。特に思ったような結果が得られなかった場面にそれは顕著になる。仮に事実を認識しても、その事実の捉え方を自分の都合の良いように解釈してねじ曲げたり、理性的な考えよりも感情的な考えを優先させてしまう場合がある。ただし、結果として得られた事実は事実であり、それを正しく認識 しなければ、次もまた同様の失敗を繰り返してしまう。
この際に、感情や想いを一旦切り離し、現実的な物の見方をするトレーニングをするべきだ。“トレーニング”と書いたのは、誰しもが最初からこのような物の見方ができるわけではなく、後天的な訓練によって習得できる技術だからである。感情、特に怒りや恐れといった感情は、物事の見方を大きく狂わせやすい。こういった感情は人である以上 100%コントロールできるわけではないが、物事を観察し正しい判断を下さなくてはいけない場面では、これら負の感情を一度棚に上げる習慣を身につける方が良い。要は、怒りや恐怖という感情自体は自然と湧き上がるもので、この感情が湧き上がること自体をコントロールすることは不可能であるから、その感情が出てきた後にどうコントロールし、その後の判断と行動に結びつけるのかということがポイントである。
現実を直視できず感情に任せて正しい判断ができなかった結果、厳しい正解ではなく優しい不正解を選んでしまったとき、自分でも誤った選択をしてしまったと気が付きながらもズルズルゆるゆると、そして着実に最終目標から遠ざかる。その後に軌道を修正できれば良いが、そのまま歯車の逆回転を止めることができず、真っ逆さまに落ちていくという最悪の展開は想像に難くない。こういった経験は、事の大小はあるが、誰しも経験したことがあるのではなかろうか。
物事を観察し判断する場面では、特に負の感情のコントロールの仕方を学習しよう。ときに感情と相反してでも、優しい不正解ではなく厳しい正解を選ばなくてはならない場面は必ずあるのだ。